太陰太陽暦は太陰暦が基で、太陽の動きも参考にして閏月を入れます。
季節は多少ずれますが、何とか月と季節を一致させています。
東アジアでは、
太陰暦や陰暦=太陰太陽暦
を意味することが多いのだとか。
そんな東アジアでも、今では太陰太陽暦を使っている国はありません。
太陰暦と太陽暦の要素を組み合わせた太陰太陽暦には、果たしてどんな歴史の流れがあったのでしょうか?
太陰太陽暦とは?
紀元前の古代では月の満ち欠けが重要で、その満ち欠けの繰り返しから「太陰暦」を生み出しました。
太陰暦を使うと太陽暦よりも、段々と日付けがずれてしまいます。
このずれを放っておくと、暦と季節が大きく違ってくるので、
約354日 /1年+閏月(うるうづき)
を足して、1年を13ヵ月とした事により、何とか季節のずれを正そうとしたのです。
このように、太陰暦がベースですが、そこに太陽暦の要素も取り入れているのが太陰太陽暦です。
太陰暦と太陽暦の違いって何?
と思った方は、
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イスラム暦(ヒジュラ暦)では、今でも太陰暦を採用しているので、この暦との区別の意味でも太陰太陽暦は使われています。
太陰太陽暦の閏月の入れ方
古代では天体観測の時に、
閏月っていつ入れるんだ?
という疑問が湧いた後に、メトン周期が発見されました。
そこから、閏月の入れる時期は決められるようになったのです。
やがて、古代ローマではユリウス・カエサルが暦を太陽暦に切り替えます。
ヨーロッパ中世では、グレゴリオ暦がポピュラーとなり、イスラム圏以外で採用され、現在に至るのです。
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一方、中国や日本などの東アジアでは太陰太陽暦がそのまま使われ続け、閏月を入れるため二十四節気が使われました。
しかし、閏年の有り無しによって日数の違いが出るので、現在は太陰太陽暦を正式に使っている国はありません。
日本では、明治5年に太陰太陽暦から太陽暦に切り替わりました。
中国では、太陰太陽暦に基づく新年(春節)などが現在でも祝われています。
ちなみに、古代バビロンとインドの太陰太陽暦は、二十四節気ではなく黄道十二宮によって閏月を暦に入れていました。
この黄道十二宮に基づいて、太陽の位置を計算して、閏月を暦に置いたのです。
古代の暦の運用方法
メソポタミア文明の祖であるシュメール人が、世界で初めて太陰暦を使用しました。
しかし、彼らが暦と季節のずれをどう正したのかはよく分かっていません。
そして、バビロニアでは太陰太陽暦を使用し、バビロニア初期の頃は暦や季節のずれを適当な日数や閏月を足して済ませていました。
やがて、19年の間に7回閏月を入れるとほぼ間違いなく暦を運用できるメトン周期に気付いたのです。
ちなみに、メトンとはバビロンでこの原理を知り、ギリシアに持ち帰った天文学者の名前に由来しています。
このメトン周期は、その後に世界中で知れ渡る事になります。
例えば、古代中国では
と暦と季節のずれの対策が移り変わりました。
古代ギリシャの暦も、このメトン周期の影響を受けたと言われています。新バビロニア王国の暦は、バビロン捕囚の中でユダヤ人に受け継がれ、現在のユダヤ暦に引き継がれています。
- イスラムのヒジュラ暦
- 太陽暦(イラン暦、ルーミー暦など)
が使われるようになってから、ユダヤ人社会以外の西アジアでは、太陰太陽暦が使用されることはなくなりました。
中国の太陰太陽暦
古代中国では太陰暦が使われ、暦と季節のずれは閏月によって正されました。
この閏月は、「冬至」を基準にして定めることが多かったようで、冬至の日を1年の始まりとして、冬至が含まれる月を天体観測により決めます。
暦をそのまま使い続けると、太陰暦の影響により冬至が再び来る日数はより短くなり、決められた月にきちんと冬至が来なくなります。
そのずれた年を閏月の入る年にして、年末に閏月を置き1年を13ヵ月としたのです。
メトン周期の使用
やがて、中国でもメトン周期が知られるようになり、閏月は19年の間に7回となりました。
しかし、この周期でも若干の誤差があり、長くこの暦を使い続けると、暦と季節に大きなずれが生じたのです。
ただし、当時の人々はそこに気付いていて、
暦に閏月の入れる割合を減らそう
という対策を採ったのです。
二十四節気の使用
ただ、これだと年によっては1か月も暦が実際の季節からずれることもあったので、その対応策として二十四節気が使われ、実際の季節の目安にしました。
暦と季節のずれが蓄積されていくと、中気を含まない月が出て来るので、その月を閏月として月名はその月に含まれる中気によって決めました。
この閏月を置く二十四節気によって、暦と季節のずれをおよそ半月程度に抑えることが出来るようになったのです。
グレゴリオ暦の改暦
そんな中国の太陰太陽暦に変化が生じて、1911年の南京に中華民国臨時政府が起り、太陽暦(グレゴリオ暦)に改めました。
しかし、太陰太陽暦に慣れ親しんできた国民は、
ケッ、何で新しい暦を使わないといけないんだよ
となかなか太陽暦を使おうとしませんでした。
なんとか今では定着して来ましたが、今でも太陰太陽暦に基づく新年が祝われています。
中国の新年が、一般的な新年とずれているのはこのためだったんですね。
日本の太陰太陽暦
日本では飛鳥時代以降、中国王朝が制定した暦をそのまま導入して、日本独自の和暦として使用しました。
和暦とは、元号とそれに続く年数によって年を表現する方法で、現在でも使われています。
例えば、「平成」や「令和」とかです。
太陰太陽暦の改暦
江戸時代の「宣明暦」は、なんと800年も使用し続けたので、太陽の運行予測に約2日のずれが生じました。
これじゃいかん!
と思ったのでしょう。
渋川春海(しぶかわはるみ)の意見によって、あくまで中国の暦ベースである日本独自の太陰太陽暦の改暦を実現しました。
この時の和暦名は「貞享暦」で、それ以降はこの太陰太陽暦を使う習慣が根付きます。
しかし、明治の初めに政府が「太陽暦」に切り替える太政官布告を出しました。
グレゴリオ暦の改暦
グレゴリオ暦に基づき、
明治5年12月3日 → 明治6年1月1日
としました。
ここで、太陰太陽暦の歴史は幕を閉じたのです。
ただ、このグレゴリオ暦になる以前の明治4年までの年を、正確に算出するには注意が必要です。
例えば、太陰太陽暦の年末の場合、西暦では既に新年を迎えて次の年になっているのです。
ややこしいですが、日本史の年表を見る時には注意が必要ですね。
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古代メソポタミアや東アジアで主に使われいた太陰太陽暦は、日本でも身近な暦であったことにビックリですよね。
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参考:『太陰太陽暦』