周(しゅう)は、中国古代の王朝です。中国最古の王朝である殷(いん)を倒して王朝を開きました。そんな殷の歴史について詳しく知りたい方は、
殷の歴史とは?中国最古の王朝成立から滅亡までの5つの流れ
中国文明について歴史の教科書で最初に出てくるのが「殷(いん)」でしょう。ここでは、授業ではざっと飛ばしがちな殷の歴史について詳しく書いています。
こちらの記事を先に読んでみて下さいませ。ここでは、個性豊かな周の王様たちを逸話を交えながらご紹介して行きます!
伝説上の周王朝の創始者
周には、伝説上の祖先がいます。それが、后稷(こうしょく)です。彼の母は、野に出て巨人の足跡を踏んで妊娠したと言われています。
さすが、伝説上の人物の逸話ですね!
そんな彼は農耕をこよなく愛し、農業に関する政策に功績がありました。そして、帝である舜(しゅん)に仕え、周に住み着いていたと言われています。
古公亶父の一言のインパクト
先代の王の一人である古公亶父(ここうたんぽ)の時代。彼には3人の息子がいました。3男の子供昌(しょう)が生まれた時に、様々な吉兆が起りこました。
古代中国では、こういった吉兆が起こると、その子は徳が高い気高い聖人だと考えられていました。実際に、後に昌は周の王「文王(ぶんのう)」となります。
こういった吉兆に、古公亶父は一言とつぶやきました。
昌の子孫が、我ら王朝を栄えさせてくれるのかのぅ
つまり、古公亶父は3男に跡を継がせる意思をちらつかせたのです。その考えを知った長男と次男は逃げ出します。
やってらんね!
特に長男はそう思ったのでしょうか。長男は、その後に句呉(こうご)と名付けた国を興します。この国が、後に春秋時代に存在した「呉(ご)」となるのです。
周王朝の誕生までの流れ
さて、3男の息子昌(しょう)は古公亶父の期待通りめきめきと周の勢力を拡大して行きます。そして、殷の王様より
そなたに、西の統括を任せる
と臣下として命じられます。この時、既に周の勢力は殷を抜いていました。しかし、文王(後の昌の名前)はあくまでも殷の臣下として従ったのです。
しかし、そんな時代も文王の息子である武王(ぶおう)の時代に終わりを迎えます。武王は弟たちの協力を得ながら、殷の暴君であった紂王(ちゅうおう)を倒します。そして、周王朝を建てたのです。
成王・康王の時代は天下泰平
殷王朝を倒した武王でしたが、彼は周王朝建国後、すぐに死んでしまいます。その後を継いだのが、成王(せいおう)です。彼が継いだ時にはまだ幼く、殷の残った勢力も侮れない状況でした。
成王様はまだお若い。代わりに私が政務全般を行いましょう
と摂政として文王の4男であった周公旦(しゅうこうたん)が政治を見ることになりました。この摂政政治は、結果として成功します。
文王の息子である3男と5男は、周公旦が摂政となった後、
あいつ、4男のくせに調子乗り過ぎじゃね?
と周公旦が政権を握ることに不満を持ちます。この不満を利用したのか、殷の最後の王紂王の息子と周公旦の兄弟たちが、共同で反乱を起こします。
周公旦、この反乱を鎮圧せよ
と幼い成王は周公旦に命じます。そして、見事この反乱を鎮圧します。それから7年後に、
成王様もご立派に成長なさいましたね。それでは、私はただの一臣下に戻らさせて頂きます
と摂政としての仕事を終えたのです。
成長した成王は周公旦を含めた優秀な臣下を持ちつつ、政務に取り組みました。その結果、古代中国東方の異民族であった東夷(とうい)を討伐して権力と威勢を示しました。
成王の後を継いだのが、康王(こうおう)です。彼の時代も、優秀な臣下を持ち安定した天下を治めました。
この成王様と康王様の時代である40年間は、刑罰を用いることはなかった
と言われるほど、この2人の王の時代は天下泰平でありました。
ここまでが、周の最も輝かしい王朝のお話です。この時代以降は、だんだんと衰退して行き、遂には滅亡してしまうのです。そんな没落の道をたどる周の後半の歴史を知りたい方は、
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参考:周