晏子(あんし)は古代中国の春秋時代における斉(せい)の政治家で、霊公(れいこう)、荘公光(そうこうこう)、景公(けいこう)の三代に渡って仕えたとされています。
晏子はこれまた名宰相として有名な管仲(かんちゅう)と並んで称されることが多く、位の高い人物であっても物怖じしないで進言を行ったことが有名です。
ちなみに、管仲に関する記事もございますので、よろしければそちらもご覧ください。
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ここでは、晏子の名宰相としてのエピソードをご紹介していけたらと思います。
男装禁止について
晏子が最初に仕えた霊公の時、町の女性の間で男装をすることが流行りました。
町の女は一体何をしているんだ!即刻止めさせよ!
霊公はさっそく町に禁令を出しました。
しかし、この流行は元々霊公の妃から始まったことであり、霊公の妃は相変わらず男装を続けていたので、流行は収まりませんでした。
そこで晏子は
宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります
と霊公に進言し、その通りにすると流行は収まりました。
逃げる霊公への晏子の言葉
斉が晋(しん)と戦っている時、まだ戦えるにもかかわらず霊公が逃亡しようと企みます。
もう絶対勝てん!わしは逃げる!
逃げようとする霊公を必死で晏子は引き止めます。
お待ちください!
晏子が霊公の袖を掴むと勢いあまって袖が引きちぎれてしまいました。
何をする!無礼者!
霊公が晏子の無礼に怒り、剣に手をかけました。
すると、晏子は堂々と言いました。
私を切り捨てる勇気を持っているなら、どうか敵と戦ってください!
晏子が覚悟を持って霊公を説得したのですが、霊公はそれを聞こうとはしませんでした。
お前を切り捨てる勇気がないから逃げるのだ
結局、霊公は戦場から首都へと逃げ帰ってしまいました…。
楚の王にも動じない
晏子が使節として楚(そ)へ行った際、楚の霊王(れいおう)は晏子を見て、とても貧相に思いました。
というのも晏子は『史記』によると、なんと身長は135センチメートルもない、とても小柄な人物だったようです。
霊王は言いました。
あなたが来るなんて…。斉には人がいないんですか?
晏子は答えます。
何を言います。斉は人々が袖を広げれば日を遮ることも出来るし、人々が汗をかくとそれは雨になります。日々、肩と肩、踵と踵がぶつかるほどに人がいます。それなのに、ひとがいないことがありましょうか
では何故、あなたのような者を使節としてこちらによこしたのでしょう
斉という国が使節を送る時は、送り先によって人物を変えます。例えば賢い王のもとには賢い者を、愚かな王には愚か者を使節に遣わします。私は最も愚かな者なので、楚に使節として遣わされました
楚の王相手に晏子は盛大な皮肉を言ってのけたのです。
そんな晏子と霊王との会見の最中に楚の役人が縛られた者を連れてきました。
なんですか、その人は?
霊王が役人に尋ねます。
斉の人間です
王はさらに尋ねます。
何をしたのですか?
泥棒です
王はそれみたことかと晏子に向き合い、
斉の者は盗みが性分なのですか?
と聞きました。
晏子は答えます。
こんな話を知っていますか?とある場所では橘(たちばな)という果物が成る樹を違う土地へ持っていくと、その樹は橘を実らせることが出来ません。それどころか棘のある枳(からたち)という果物を実らせるようです。これはその土と水が悪いからにございます。斉の者は斉に住んでいる時は盗みはしません。そんな良民が楚に来ると盗みをしています。何故でしょうか?答えは楚の風土が悪いからでしょう
晏子の言葉に霊王は
聖人であるお前をからかおうとしたが、かえって自ら恥をかいたか
と苦笑いをしたと言います。
天下に悪名高い霊王をへこませたことで、晏子の名は更に上がったとされています。
参考:晏嬰
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