サラミスの海戦はペルシア戦争の中のギリシア艦隊とペルシア艦隊の間で行われた海戦のことを言います。
ヘロドトスの『歴史』にこの海戦のことは詳しく書かれています。
一体、どっちが勝ったの?
結果はギリシア艦隊の勝利です。
それでは、どのようにしてギリシア艦隊は強大なペルシア艦隊に勝つことが出来たのでしょうか?
サラミスの海戦の背景
サラミスの海戦の前に、ペルシア軍に防衛の地として重要であったテルモピュライなどが突破されてしまいます。
サラミスの海戦にも繋がるテルモピュライの戦いについて詳しく知りたい方は、
テルモピュライの戦いとは?兵力差のあった戦いの7つの歴史
ダレイオス1世を含めたスパルタ軍が、勇敢にも数で勝るペルシア軍に全滅するまで挑んだ戦いこそがテルモピュライの戦いです。結果はペルシア軍を3日間食い止め、ペルシア王の兄弟を2人戦死させました。一体どんな戦いだったのでしょうか?
こちらの記事を先にお読み下さいませ。
ギリシア軍はギリシアの一都市であるアテナイの要請により、サラミスという島に艦船を終結させました。
さて、こんな状況でペルシア軍との戦いの主戦場をどこに置くか…
とギリシア連合軍は話し合いました。
次々とペルシア軍により陥落していくギリシアの都市の知らせを聞いたギリシア全軍は震え上がり、
ひとまずサラミスとは違う土地を決戦の場としよう
と決めたのです。
テミストクレスの内通
しかし、アテナイのテミストクレスはその決定に反対します。
サラミスでの艦隊の集結を無きものにすれば各都市の艦隊は帰ってしまい、二度とギリシアが連合することはないでしょう
とサラミスの海戦を強く主張したのです。
この主張によりサラミスでの海戦は決定したのですが、これに反対する者たちもおり会議は揉めました。
一方、サラミスの海戦を主張したテミストクレスは、
ギリシア艦隊はどうやらサラミスで海戦を行う方向でまとまりそうです
と密かにアケメネス朝ペルシアの王であったクセルクセス1世の下に使者を送って、会議の内容を伝えていました。
テミストクレスはクセルクセス1世と内通することにより戦争に負けたとしても、
自分の命が助かる道は用意しとかないとな
と自分の活路を確保し、さらにペルシア艦隊をサラミスで決戦を行うよう仕向けたのです。
サラミスの海戦の概要
さて、そんなテミストクレスの言葉を信じたペルシア軍は、夜中にギリシア艦隊を完全包囲します。
この動きに全く気付かなかったギリシア軍は、
ペルシア軍によって完全包囲されてます…!!
という幾度かの知らせを聞き、急いで戦闘の準備に取り掛かりました。
- ギリシア艦隊の軍船である三段櫂船(さんだんかいせん):合計380隻
- ペルシア艦隊の三段櫂船:合計684隻
ほぼ2倍も戦闘力が違います。
それでは、どのようにしてギリシア軍は勝利することが出来たのでしょうか?
どうやってサラミスの海戦が始まったのかはよく分かっていません。
ですが、テミストクレスは一定の時刻になると吹く風を利用しようと、ペルシア艦隊とは逆方向に進み時間稼ぎしていたとされています。
そして、テミストクレスが待ち望んでいた風は、ペルシア艦隊の前に大きな高波を生み出しました。
ギリシア艦隊は高波に耐えうるような船の造りをしていた一方、ペルシア艦隊はその影響をもろ受けるような造りになっていたとされています。
この高波の影響により、ペルシア艦隊は思うような動きが取れませんでした。
さらに、戦闘の海域も大きな艦隊を持つペルシアには狭すぎ、戦闘の列が乱れたところにギリシア艦隊の攻撃を受けたのです。
これは、もうダメだぁ…
とクセルクセス1世は悟ったのでしょう。
朝早くから始まったこの海戦は、日没とともにペルシア艦隊が逃げ帰ったことで終わりました。
サラミスの海戦の影響
ギリシア艦隊はこの戦闘が終わったとは思えませんでした。
しかし、クセルクセス1世は
いや、もう完全に戦意喪失だわ…。私抜きでも、戦闘の意思は見せといてね
と自身は撤退しました。
一方、ギリシア艦隊はペルシア艦隊を追っかけ攻撃していましたが、途中で軍事会議を行いました。
そして、今後のことについて話し合ったのです。
ペルシア王を追うべきだ!
テミストクレスはこう主張しました。
いや、そんな事したら逆にペルシア側が死に物狂いで反撃に出るかもしれんだろ!
とスパルタの将軍はテミストクレスに忠告しました。
ペルシア艦隊への追撃は、ちょっと止めておこうか…
とテミストクレスはアテナイ艦隊に呼びかけ、
いやー、自分が何とかペルシア艦隊への追撃を止めさせましたよ
とクセルクセス1世に対しては密かにこう告げたのです。
サラミスの海戦でのギリシア海軍の勝利により、ペルシア戦争は行き詰まります。
ただし、ペルシア軍が後へ退いたとは言え、その強大なペルシアの力は健在でした。
一方、アテナイにとってはこの海戦による勝利はとても大きなものでした。
この勝利により海上国家に成長する重要な出来事となったのです。
テミストクレスのその後
そんなアテナイ出身のテミストクレスは以下のような事を色々と行いました。
- ペルシア側に付いた他のポリス(都市国家)から金品を巻き上げる
- ギリシアの中でアテナイが有利になるような政策をする
そういった独りよがりな功績がアテナイ市民たちにとっては、
いやーー、ちょっと独裁者みたいだよね
と僭主(せんしゅ)っぽく見えたんですね。
古代ギリシア全体で見ると、僭主は独裁者とは見なされていませんでした。
しかし、アテナイでは民主政治がしっかりとしていたので、こういったリーダーみたいな人物は独裁者と見なされやすかったのです。
そして、テミストクレスはアテナイ市民たちによって、陶片追放(とうへんついほう)という国外追放にされてしまいます。
この僭主と陶片追放について詳しく書いた記事があるので、
良ければこれらの記事も参考にしてみて下さい。
テミストクレスはさらに国家反逆罪で告発されることとなり、
くそっ、何で俺がこんなことに…!!とりあえず敵国ではあるがペルシアに逃げるか
とアケメネス朝ペルシアに逃亡します。
テミストクレスの追放の後、
ペルシアがまた来るかもしれない…
という不安からその準備として、ポリスの連合体であるデロス同盟が成立したのです。
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参考:『サラミスの海戦』