テルモピュライの戦いはペルシア戦争の中の1つの戦いです。
テルモピュライという地で、スパルタ中心のギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍が戦いました。
ちなみに、ヘロドトスの『歴史』の中にこの戦争について詳しく書かれていますので、
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ペルシア軍の持つ戦力の方が圧倒的だったにも関わらず、この戦いではギリシア軍が優勢でした。
しかし、ギリシア軍は最終的に背後に回り込まれて敗北しています。
この中で、特にスパルタ軍は全滅するまで戦いました。
その成果としては、ペルシア軍を3日間に渡って食い止め、アケメネス朝ペルシアの王の兄弟を2人戦死させました。
この成果はスパルタ軍が以下のようであったためと言われています。
- 勇敢であった
- 地形の利用に長けていた
それでは、テルモピュライの戦いとは一体どんなものだったのでしょうか?
テルモピュライの戦いの原因
アケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世をきっかけにペルシア戦争は起こりました。
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テルモピュライの戦いの背景
ペルシア軍の侵攻により、
アケメネス朝ペルシアに付くか戦うか…うーーん
とギリシアのポリス(都市国家)たちは悩んでいる内に、ペルシア遠征軍はギリシアの一部地域に侵入してしまいます。
これはいかんよ!よし、都市国家同士で共に戦おう!
とポリスたちは決意するのです。
こうして結成されたギリシア軍。
いざ出兵!
という時にマケドニア王国のアレクサンドロス1世にペルシア軍についてこう伝えられます。
ペルシアの軍はマジでヤバイよ!デカすぎるってマジで…
彼はアケメネス朝ペルシアに従っていたのですが、内心は筋金入りの反ペルシアでした。
そんな彼の言葉です。
その言葉の信憑性の高さもあってか、ギリシア軍は撤退しつつも再び会議を開きます。
怯えてちゃダメだ…。やっぱり迎え撃とう!!
とテルモピュライという土地でペルシア軍を迎え撃つことに最終的には決めたのです。
オリンピックと時期が被る
テルモピュライは他のギリシアの地域を守る上で、戦略的に極めて重要な意味を持っていました。
ですが、テルモピュライの戦いをギリシア軍が決めた矢先に、ギリシアの地域ではちょうど以下のようなお祭りが開催されていました。
- スパルタ:カルネイア祭
- オリンピア:オリュンピア祭(今のオリンピックの起源となったお祭り)
なので、十分な軍を用意することが出来ず、少数の部隊しか派遣できなかったのです。
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スパルタのレオニダス王登場
テルモピュライの戦いで登場するのがスパルタの王であったレオニダスです。
レオニダス王の戦いは、今では英雄として伝説となっています。
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クセルクセス1世の予想外?!
ギリシア軍はテルモピュライの戦いにおいてやる気満々でした。
一方、アケメネス朝ペルシアの王クセルクセス1世は
ギリシア軍よ、撤退するのに4日の猶予を与えよう
とギリシア軍の撤退を待ちました。
兵力差を目の当たりにして、ギリシア軍はよもや降参するだろう
と思っていたのです。
まさか戦闘になるとは思いもよりませんでした。
しかし、5日目になっても撤退の気配はありません。
え、まじで…?兵力差200万人以上だよ…?もしかして勝てると思っちゃってるの?!
とクセルクセス1世は思いつつ、とうとうギリシア軍の攻撃を開始するのです。
戦いの勝因は裏切りだった?
ギリシア軍にとって有利だったのは、テルモピュライの狭い道でした。
この狭さによりペルシア軍自慢の騎馬部隊は活躍出来ませんでした。
この時アケメネス朝ペルシアは大量の戦死者を出したのに対し、ギリシア軍の損害は少なく済んだのです。
その理由としては以下の点が挙げられます。
- スパルタ軍の重装歩兵(重装備の防御)
- 狭い地形を利用した無敵の戦術
こういった理由により、なんと圧倒的な兵力を持つペルシア軍をギリシア軍は押し返したのです。
ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を打ち破る術がありませんでした。
こっちにテルモピュライの裏道がありますよ
そんな時、ペルシア側に付いたギリシア人の地元民の裏切り者により、ペルシア軍はその裏道を知ってしまうのです。
そして、その裏道からギリシア軍の背後に回ってギリシア軍を討とうとしました。
このペルシア軍の行動を見たギリシア軍たちは、
これはダメだ…、やられる。なので、撤退!
とほとんど撤退してしまいます。
スパルタ軍と残りの数少ない兵を残して。
戦いの様子はレオニダス王についての記事に詳しく書かれているので、ここでは省略します。
結論だけを言うと、残ったギリシア軍のテーバイ兵以外は全滅です。
一方、ペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされています。
テルモピュライの戦いのその後
テルモピュライの戦いにより、レオニダス王とスパルタ兵たちは英雄として称えられました。
彼らの記念碑も建てられており、そこが観光名所としても有名です。
ペルシア軍はテルモピュライを突破した後、通過する全てのポリスを焼き払いました。
さらに、少数の市民が残るポリスをペルシア軍は占拠していったのです。
しかし、レオニダス王とスパルタ兵が時間を稼いでくれたおかげで、
よし、サラミスの海戦の準備が整った…!
とギリシア軍は海上決戦ではペルシア軍に大勝利することが出来たのです。
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また、プラタイアの戦いに参戦するか迷っていたスパルタの王族パウサニアスは、
レオニダスの仇を討て
このような神のお告げを聞きます。
そして、レオニダス王の仇討ちのために
ペルシア全軍と戦おう…!
と決意を固めるのです。
その結果、1万のスパルタ重装歩兵が30万のペルシア全軍を打ち破るという奇跡を起こします。
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こうして、プラタイアの戦いでの勝利によりレオニダス王の復讐は果たされました。
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参考:『テルモピュライの戦い』