ペロポネソス戦争は、
- アテナイを中心とするデロス同盟
- スパルタを中心とするペロポネソス同盟
との間に発生した対立がきっかけで起こりました。
この戦争は古代ギリシアの全域を巻き込むほどの大規模なものでした。
そんなデロス同盟とペロポネソス同盟について詳しく知りたい方は、
デロス同盟とペロポネソス同盟の違いを分かりやすく解説!
デロス同盟はアテナイ(アテナ)。ペロポネソス同盟はスパルタを中心とした同盟です。お互いの仲の悪さによる対立が後に、ペロポネソス戦争へと発展させて行きます。この記事では、2つの同盟の違いや関係性についてを詳しく解説していますよ!
こちらの記事を先にお読み下さいませ。
大規模となったペロポネソス戦争の原因。
その最初のきっかけはささいな出来事でした。
ペロポネソス戦争のきっかけ
コリントス人によって建設されたケルキュラという都市がありました。
コリントスとは、古代ギリシアにおいてアテナイやスパルタと並ぶほどの主要な都市国家(ポリス)の一つでした。
そして、ケルキュラがさらに発展して出来た小都市がエピダムノスでした。
ペロポネソス戦争が起こるきっかけは、この小さな都市から始まったのです。
ケルキュラの救援拒否
エピダムノスは相次ぐ内紛や周辺民族との争いによりかなり疲弊していました。
どうか、助けてくれませんかね。ケルキュラさん
とケルキュラに対して、紛争の仲裁や兵隊の援助を求めましたが、
はぁ?そんなの俺たちには関係ねぇじゃん。自分らで何とかしてくれよ
とケルキュラはエピダムノスに対して何も援助を与えませんでした。
くっ…、本当に困った。最後に、コリントスさんに頼むしかないか…
とエピダムノスはコリントスに助けを求めました。
いいよ!その代わり僕たちの植民都市となってね☆
とコリントスは救援に応じました。
この動きを見たケルキュラは、
え、何やっちゃってくれてんの?エピダムノスは元々俺たちの植民都市だよ?
と激怒しました。
元々、ケルキュラもコリントスの植民都市だったんですけどね。
怒ったケルキュラはエピダムノスへ侵攻して、エピダムノスという都市自体を攻め落としてしまいます。
シュボタの海戦
その後も、ケルキュラは各地のコリントスの植民都市に対して略奪を繰り返したのです。
ケルキュラったら、調子乗っちゃって…。今に見てろよ
とコリントスは仕返しの機会を窺いながら、軍備増強を進めていました。
うわ、やばいよ…、コリントス何か本気出して来たよ!アテナイ、助けてくれないか?
とケルキュラはコリントスの本気の動きに恐れをなし、アテナイに助けを求めます。
やれやれ、困ったケルキュラさんですね。ですが、これはペロポネソス同盟と戦うための戦力になるかもしれませんね
とアテナイはケルキュラに援軍を送り戦闘となります。
ポティダイアの戦い
その翌年。
どうです?武装解除してくれたら、こちらも何もしませんよ
というアテナイの要求を、コリントスの植民都市の一つが拒否します。
さらに、デロス同盟から脱退して、ペロポネソス同盟による保護と加盟を求めました。
それに対してアテナイは、
やれやれ、大人しく従っていればいいものを
と軍を派遣して、その植民都市を包囲します。
ケルキュラ以外にも、僕たちを邪魔する者がいたんだね
とコリントスとアテナイは対立することになったのです。
ペロポネソス同盟の決断
この頃、ペロポネソス同盟のポリスたちはアテナイの行動について、
もしかしてこのまま行くと、アテナイは全ギリシア世界を支配するつもりでは…?
という心配をしていました。
自分たちで内政を行うことが大切だ
と考えていたペロポネソス同盟のポリスたちは、アテナイの好戦的な拡張政策が気にくわなかったのです。
こういった背景が原因となり、
デロス同盟対ペロポネソス同盟
という構図が出来上がって行き、ついにペロポネソス同盟会議は、
アテナイ軍によるペロポネソス同盟加入のポリスに対する略奪や侵略を見逃す訳にはいかぬ。よって、和約の破棄と見なす
としてアテナイとの開戦を決定したのです。
ペロポネソス戦争でどっちが勝った?
さて、それではここからペロポネソス戦争突入のお話です。
果たして、スパルタとアテナイのどちらが勝利したのでしょうか?
十年戦争でのアテナイの活躍
スパルタ王率いるペロポネソス同盟軍は、アテナイ周辺の地域を侵攻し始めました。
それに対してアテナイは市民全てを城内に避難させ、海上からペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取りました。
ところが、当時流行していた疫病がアテナイでも発生します。
そして、市内の治安が乱れ市民の約6分の1が疫病によって死んでしまいます。
それでも、海上でのアテナイの強さは変わりませんでした。
その証拠に、スパルタ市民兵を含む292人を捕虜とするなど多くの成果を上げていました。
決して降伏しない!
というので、本来のスパルタ兵は有名です。
なので、そのスパルタ兵を降伏させたアテナイ軍は凄かったのです。
ペロポネソス同盟軍は、
くっ…、やはりアテナイは強いか。なので、戦争を止めませんか?
とアテナイに停戦の申し入れをしましたが、
まさか冗談でしょ?君たちが戦争をしかけたんじゃないか!こうなったら、僕たちはとことんやらせてもらうよ
とアテナイはこの申し出を拒否します。
しかし、戦局は徐々にペロポネソス同盟側へ傾き始めました。
不完全だったニキアスの和約
その後に、和平を望むアテナイの将軍とスパルタ王が本当に和平を成立させました。
しかし、両国とも決定された領土の返還を守らなかったのです。
したがって、和平を結んだのにペロポネソス戦争を完全に終わらせることが出来ませんでした。
第二次戦争による戦争の決着
アテナイはソクラテスの弟子であったアルキビアデスという政治家によって、ペロポネソス戦争が再開されることになりました。
アルキビアデスの主導で、シケリア遠征を決定しますが無謀な遠征だったようです。
この遠征によってアテナイが不利になったのをきっかけに、
よし!今のうちに、アテナイへの穀物を供給する土地を取り押さえよう!
とペロポネソス同盟軍はその土地を占領します。
そして、数多くの兵力を使ってまで行ったシケリア遠征は、とうとう完全な失敗に終わってしまいます。
この失敗により、デロス同盟に加入していたポリスたちは次々に離れて行き、ペロポネソス同盟が優位となって行ったのです。
それでも、アテナイは予想外にも持ちこたえます。
そして、ペロポネソス同盟と渡り合うのです。
何度か海戦では勝利するものの、ついに逆転には至りませんでした。
最終的に、最後の海戦でアテナイは包囲され降伏します。
そして、ペロポネソス戦争は終結したのです。
ペロポネソス戦争による影響
この戦争はその後も歴史的な出来事に大きな影響を与えて行きました。
その代表的な出来事をご紹介しましょう!
ソクラテスの弁明
戦争の結果、デロス同盟は解放されアテナイではスパルタ人による恐怖政治であった三十人政権が誕生します。
この政治体制に、
ふざけんなぁ————!!
とアテナイの将軍を中心に、三十人政権を倒し政権を奪い返します。
そして、以下の人物が裁判にかけられてしまうのです。
- ペルシア戦争敗戦の原因となったアルキビアデス
- 三十人政権の指導者のクリティアスらを弟子に持つソクラテス
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ペルシア帝国の支援
アテナイはデロス同盟の支配者としての地位は失いましたが、有力ポリスとしては存在し続けました。
アケメネス朝ペルシアはアテナイを含むスパルタと敵対するポリスに、
ほれ、この金を使うのだ
と言って資金援助を行いスパルタに対抗しました。
ここから、スパルタやアテナイなどの覇権争いが起こって行きます。
しかし、アテナイはペルシア軍とも戦って打ち破ったりもしています。
いくら資金援助しても、やはり元々は敵同士ですからね…。
一方、スパルタはテーバイというポリスに敗北しギリシアの覇権を失います。
しかし、そんなテーバイもそのすぐ後に覇権を失います。
マケドニアの台頭
こうした覇権争いの中、アレクサンドロス大王の父であるフィリッポス2世は戦いに参加しながら、マケドニア王国の影響力を強めて行きました。
古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスがアレクサンドロス大王の家庭教師となったことも、その後の歴史に大きな影響を与えました。
この2人の関係についてはアレクサンドロス大王の記事にも載っているので、
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こうして、ギリシア世界はマケドニア王国の支配下に置かれることになったのです。
フィリッポス2世が暗殺されちょっと混乱した時期もありましたが、次のアレクサンドロス大王がまた権力をきちんと握ります。
そして、アレクサンドロス大王はとうとうギリシア世界の宿敵ペルシア帝国を倒しに、マケドニア軍を率いて東方遠征へと向かうのでした。
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参考:『ペロポネソス戦争』