アレクサンドロス3世はマケドニア王国の王であり、「アレクサンドロス大王」とも呼ばれていました。
そんな彼の生涯について詳しく知りたい方は、
アレクサンドロス大王とはどんな人?5つのエピソードまとめ
世界史で超有名人物アレクサンドロス大王(3世)ってどんな人物? 彼はなぜ有名人になったの?あの有名な哲学者アリストテレスを家庭教師に持った男の偉業とは何だったのか?エピソードと共に分かり易く解説しています!
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また、コリントス同盟の盟主(リーダーみたいなもの)であり、エジプトのファラオも務めていました。
コリントス同盟って何?
と思った方は、その同盟について触れた記事があるので、
カイロネイアの戦いはなぜ起こった?分かり易く丁寧に解説!
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この記事では、アレクサンドロス大王の凄さについて詳しく書いて行きます。
果たして、彼はどれほど凄かったのでしょうか?
アレクサンドロス大王の東方遠征
アレクサンドロス大王は、若干20歳にして父であるピリッポス2世の王位を継承しました。
彼は生涯のほとんどを、東方遠征に費やしたと言っても過言ではありません。
30歳までには、ギリシャからインド北西にまたがる大帝国を築き上げました。
戦いでは一度も敗北したことがなく、歴史上最も成功した軍事指揮官であったと考えられています。
そんなアレクサンドロス大王が行った東方遠征について詳しく知りたい方は、
『東方遠征』とは?理由から結果までを簡単に解説してみた!
アレクサンドロス大王はなぜ東方遠征を行ったのか?その理由は、暗殺された父フィリッポス2世と一緒に計画したペルシア帝国への東方遠征の野望があったからです。東方遠征によって占領した地域情報等もご紹介しています!
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アレクサンドロス大王の指揮能力
アレクサンドロス3世が「大王」となったのは、軍事指揮官としてのずば抜けた成功があったからです。
彼の凄いところは、たとえ数で圧倒されても、一度も戦いにおいて負けたことがないことです。
大胆な戦略や戦術、そして部下の強い忠誠心があったからこその功績です。
6メートルの長さを持つ槍で武装したマケドニアのファランクス(重装歩兵)は、父ピリッポス2世によって厳格に養成され熟練していました。
アレクサンドロス大王の代では、そのスピードと運動能力を最大限利用した戦い方をしたのです。
アレクサンドロス大王の融合政策
アレクサンドロス大王は、征服地に自分の名前にちなんだ「アレクサンドリア」という名の都市をエジプトに建設しました。
ちなみに、アレクサンドリアは現在でもエジプトの第2の都市として残っています。
また、ペルシア帝国に関しては、公用語に古代ギリシア語を採用しました。
さらに、アレクサンドロス大王はペルシア文化への融合にも配慮し、
ペルシア帝国の王ダレイオス3世の娘を、嫁として俺が迎えるの良くない?
と考え、さらにペルシア人と部下の集団結婚を勧めました。
このことにより、ペルシア風礼式や行政制度も取り入れたのです。
ギリシアとオリエント文化の融合
アレクサンドロス大王によるギリシア植民地の支配とギリシア文化の東方への伝達は、
古代ギリシア+古代オリエント(現代で言う中東)
の文明を簡単に言えば「混ぜ合わせ」ました。
この文明の混ぜ合わせを、「ヘレニズム」と言います。
ヘレニズム文化はアレクサンドロス大王の死後も根付き、
- ラオコオン
- ミロのヴィーナス
- サモトラケのニケ
などの彫刻が各地で制作されました。
- エウクレイデス
- アポロニオス
- アルキメデス
- エラトステネス
- アリスタルコス
らの学者も輩出し、その後古代ローマやサーサーン朝などにも強い影響を与えました。
マケドニア軍の圧倒的な強さ
純朴で質素な生活をしていたマケドニア人は、苦難や困難に耐えるのに良い兵士でした。
また、兵士の服装を軽装にしたり、盾を廃止する代わりに長い槍を使ったりと色々と改良しました。
こういった改良に対応したマケドニア軍は、当時の地中海世界では最強の軍隊であり、兵士たちはそれを誇りに思っていました。
また、アレクサンドロス大王も戦術家としての才能はピカイチです。
敵がどのような軍隊であっても、
こう来たか。では俺らはこう出よう!
と状況に応じた部隊を編成して柔軟に対応しました。
例えば、遊牧民スキタイとの戦いでは、遠くから攻撃を仕掛け即座に撤退する敵の「ヒット・アンド・アウェイ戦法」に対しても見事に打ち負かしています。
そんなアレクサンドロス大王は戦術家としてだけでなく、戦士としても有能でした。
体を常に鍛錬し、最前線で兵士たちと共に戦い、時には自らの頭や胸に負傷を負うことさえありました。
数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロス大王は、戦士としても兵士たちから
アレクサンドロス大王、マジかっけぇ…!!最高だぜ!!!
と絶大な人気があったのです。
一方、ペルシア軍は大軍という「数」でマケドニア軍に対抗しました。
しかし、傭兵(給料を払って契約で雇う兵隊)も多かったからか、軍の士気は低く協力し合うのも難しい有様でした。
なので、戦いの継続力が乏しく、一度負けてしまうと建て直しが非常に困難だったのです。
死後のアレクサンドロス大王伝承
アラビア語やペルシア語では、アレクサンドロスは
イスカンダル
の名前で知られています。
東南アジアにイスカンダルという王名や男性名があるのは、イスラーム教の広がりにより、この英雄伝説も一緒に伝わったことが由来です。
また、イスラーム世界では
アレクサンドロスには2つの角がある
と言い伝えられていたそうです。
アレクサンドロス大王は、ギリシャ神話の英雄であるアキレウスのように伝説として語り継がれています。
そんなアレクサンドロス大王と同じように伝説の英雄となったアキレウスについて詳しく知りたい方は、
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- ハンニバル
- ガイウス・ユリウス・カエサル
- ナポレオン
などの有名な歴史人物たちからアレクサンドロス大王は、
超カッコ良き大英雄…!!
として見なされました。
その業績は、今もなお世界中の軍学校で教えられ、
- 旧約聖書
- コーラン
- ゾロアスター教
- シャー・ナーメ
など多様な民族の文献にも登場しています。
現代でも、アレクサンドロスの名にちなんだ名前を付ける人も多いようですよ。
1941年からギリシャで発行されていた硬貨や、1926年からアルバニアで発行された紙幣などの肖像にも、アレクサンドロス大王は使用されていました。
そんな偉大なアレクサンドロス大王の生まれ故郷はマケドニア王国です。
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参考:『アレクサンドロス3世』