古代中国の春秋時代の斉(せい)の桓公(かんこう)を覇者にした最大の功労者は当時の宰相であった管仲(かんちゅう)でしょう。
名宰相で知られる管仲ですが、彼は一体どのような人物だったのでしょうか?
管仲、桓公に仕える
管仲は昔から桓公に仕えていたわけではありませんでした。
むしろ、桓公と跡継ぎ争いで敵対していた兄の公子糾(こうしきゅう)に仕えていました。
この桓公と公子糾の跡継ぎ争いに関しては別記事にて詳細を書かせていただいていますので、どうぞそちらを読んでいただけたらと思います。
斉の『桓公(かんこう)』とは?春秋五覇となった人物の生涯
古代中国の覇者、斉の桓公の波乱万丈な人生とは? 王位に就くまでの跡継ぎ争いが壮絶すぎる。 分かりやすく解説!
公子糾との跡継ぎ争いに勝った桓公は当初、公子糾ともども管仲を殺そうとしていましたが、桓公に仕えていた鮑叔(ほうしゅく)から
管仲を宰相にしなければ覇者にはなれません
と言われたため、公子糾を殺して管仲を引き取ることにしたのです。
つまり、管仲が生きているのはこの鮑叔のおかげなのです。
鮑叔は管仲が宰相になると、管仲の下の立場にその補佐役にまわりました。
名宰相、管仲の政策
では、実際に宰相として管仲はどのようなことをしたのでしょうか。
内政、外交に分けて見てみましょう。
内政
管仲は国を富ませること、つまりは国民生活の安定と規律の徹底が何よりも大切だと説きました。
管仲は物価の安定、地理を利用した塩・漁業による利益の獲得などによって農民・漁民層の生活を安定させました。このことにより民衆は喜んで働き、産業が活性化しました。
安定した生活は人々の消費を生み、活性した産業は商人を呼び寄せ、商業も活性化しました。このことは他国からの人の流入にもつながり、その中から優秀な人材の発掘にもつながりました。このようにして国民生活は安定していったのです。
管仲は規律をより徹底させるために五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰も行うようにしました。
まさに日本でいう五人組制度ですね。
外交
内政を豊かにした管仲ですが、彼の能力は外交においても発揮されました。
桓公が魯(ろ)に攻めこみ、領土を奪った時のお話です。
魯の将軍である曹沬(そうかい)は桓公の首に刀を突き付けて、奪った土地を返還するように脅したのです。
桓公はやむなく誓約書を書くことになります。
斉に戻った桓公は
脅迫された約束など守る必要などない!もう一度、魯を攻めて曹沬の首を取ってやろう!
と大層ご立腹でした。
しかし、それを良しとしなかったのが管仲です。
いけません。例え脅された約束であったとしても、約束を破ってしまうと諸侯(君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下)への信頼も失ってしまいます
桓公は管仲のアドバイスを聞き入れ、魯の領地を返還しました。
するとこの評判は広がりました。
斉の桓公って人は約束だけは何が何でも守るらしい。領土まで返還したらしいぞ
桓公の約束は諸侯の間で大変信頼を持って受け入れられ、桓公を頼みにするようになっていったのです。
こうして桓公は増大した国力と諸侯からの信頼を背景に覇者へとなっていったのです。
管仲と鮑叔
管仲の名言といえば、親友である鮑叔との友情を語った言葉でしょう。
少し長いですが、ご紹介します。
昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。
また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。
私は幾度か仕官(役人になること)して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。
私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。
公子糾が敗れた時、私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。
私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である。
二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わりませんでした。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ程でした。
名宰相である管仲の側には鮑叔が存在したことが一番の功績かもしれませんね。
参考:管仲
コメントを投稿