中国の儒教の祖と言われている孔子。
その弟子はなんと3000人に及ぶと言われています。
今のSNSが発達していた社会ならまだしも、そんなものは何もない古代中国でそこまで弟子を持っていたというのは驚きです。
そんな孔子の人生はこちらでご紹介しているので、よろしければご覧ください。
孔子とは?儒家の始祖の生い立ちから学ぶ人生の生き方まとめ
儒教で有名な孔子ってどんな人生を送ったの? 幼少期から死後まで孔子の人生をご紹介!
今回は孔子と弟子との関係性を見て行けたらと思います。
では、さっそくいきましょう!
選ばれし弟子たち
孔子の弟子は3000人と莫大な人数がいたため、優秀な弟子も多くいたようです。
孔門十哲(こうもんじってつ)は、孔子の弟子の中でも最も優れた十人の弟子のことを指します。3,000人の中から選ばれし10人です。この十人は『論語』の中で紹介されているくらい凄い人物です。
この孔門十哲よりも数の多い七十子(しちじっし)は、孔子の門人のうち才能の突出した70余人の学生を指します。
3000人の中からの70余人ですので充分凄い人物だとは思いますが、多少なりとも何をしたのか分かる人は半分程度であり、名前だけが残っている状態の人が多くいたようです。
顔回(がんかい)
顔回は孔門十哲の一人で、随一の秀才であったと言われています。
孔子の後継者として見なされていたほどの人物でしたが、孔子よりも先に死んでしまいます。
この時の孔子の落胆ぶりは凄まじかったようで、
と言ったほどでした。
顔回は貧しく、暮らしぶりはとても質素であり食べ物すら手に入れるのが難しかったようです。しかし、そんな欲のない顔回を孔子はとても評価していました。
宰我(さいが)
宰我は弁論の達人として有名でした。
そして弟子の中で最も実利主義的な人物だったとされています。
いますよね、男性で理屈っぽくて現実主義、口では絶対に勝てないような人。
それが宰我だったみたいです。
実利主義で道徳を軽視していた宰我はよく孔子から叱責されていたことが論語にも記載されています。
宰我も孔門十哲の一人です。
子貢(しこう)
子貢もまた孔門十哲の一人で弁舌に優れており、商才にも恵まれていました。
孔子の弟子の中で最も富んだ人物です。
今でいう商社のようなことをしていたようで、かなり儲けたみたいです。
各国の君主とも交際しており、孔子の名前が広まったのは弟子に子貢がいたからであると言われるまでになっていました。
孔子よりも子貢の方が凄いんじゃないか…?
と言われていた子貢ですがある時、斉(せい)の君主に
あなたは誰を師としているのですか?
と問われ
孔子が私の師です
と答えました。
すると、
孔子は賢いですか?
と聞かれたので、即座に
賢いです
と子貢は答えました。すると更に
どのように賢いのですか?
と聞かれました。子貢は
存じません
と答えました。君主はいぶかしんで
貴方は師である孔子を賢いと言いながら、その賢さがどのようなものであるかは知らないと言います。それでよろしいのですか?
と尋ねました。すると子貢はこう答えました。
人は誰でも天が高いことを知っています。ですが、天の高さはどのようなものですかと聞かれたら、皆知らないと答えるでしょう。私は師である孔子の賢さを知っていますが、その賢さがどのようなものであるかは知らないのです
と孔子の偉大さを天の高さに例えて答えたとされています。
子路(しろ)と冉有(ぜんゆう)
ここで対照的な弟子を二人ご紹介しましょう。
それが子路と冉有です。
二人とも政事の才能があるとして孔門十哲に選ばれました。
しかしこの二人性格が真逆なのです。
子路は勇敢で大胆でしたがいささか軽率なところがありました。
冉有は消極的な人柄で有名でした。
ある時、
聞いたことはすぐに行いましょうか?
と子路が聞いた場合、孔子は
と言いましたが、冉有が同じことを聞くと
と言ったそうです。
孔子は二人の性格の違いを見抜いていたのです。
参考:孔子
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