太宰治が描く不朽の名作「人間失格」は日本文学にその名をいつまでもとどろかせています。
この作品には数々の名言が散りばめられており、人生に疲れたり、家族の人間関係での悩みを持つ現代人に響く言葉の宝庫です。
この記事ではそんな名作「人間失格」からとっておきの名言をカテゴリー別に紹介していきたいと思います。
興味のあるカテゴリーのみだけでもどうぞご覧ください。
あなたの悩みのヒントが隠されているかもしれませんよ。
「人間失格」のあらすじについて気になる方はこちらの記事をご覧ください。
人生
「人間失格」のテーマとなる文章だったり、人生観や社会(世間)の考察と言った文章を見ていきます。
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。
「人間失格」において最も有名な文章と言えば、この文章でしょう。
多くの方はこの文章が一番最初の書き出しの文章だと思われていますが、実は違います。
ちなみに「人間失格」の一番最初の書き出しは
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
です。
つまり自分には、人間の営みというものが未(いま)だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾(てんてん)し、呻吟(しんぎん)し、発狂しかけた事さえあります。
この「人間失格」において、自分と世間の相違というのが大きなテーマの一つでもあります。
主人公である大庭葉蔵(おおばようぞう)は世の中に溶け込みたかったのに、上手くそれが出来ず、世の中の人が何を求めているのか、何を考えているのかが分からず苦しんでいる様子がこの文章から伝わってきます。
現代においても他人が求めている行動をとれない人を「KY(空気が読めない)」と言ったりしますが、「人間失格」は「KYになりたくないけど、性格的にKYになってしまう人」の気持ちがいたるところに潜んでいます。
自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。
人間には多かれ少なかれ本音と建前があります。
大抵の人は建前で話を進めることになんの罪悪感もありません。
しかし、葉蔵は自ら道化に徹しているため、いつも罪悪感を抱えています。
人間関係を円滑にするための建前というものが葉蔵には全く分からないのです。
「世間というのは、君じゃないか」
世間という人間の集合体にいつもびくびく怯えながら生活していた葉蔵ですが、ある日ふと世間というのは個人なのだということに気が付きます。
それは世間が許さないよ
という言葉を誰かが発する時、許していないのは世間ではなく、その言葉を発した人間(個人)なのです。
世間=個人という思想を葉蔵は持つことにより、世間体という呪縛から彼は開放されたのです。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
小説「人間失格」においてタイトルである人間失格という言葉が出てくるのは一か所しかありません。
この場面は葉蔵が薬物中毒に陥り、友に騙されて脳病院(今でいう精神科病院)に強制入院させられたシーンです。
脳病院にいる患者は皆狂人ばかりで、自分もそこに入院させられたことにより、狂人のレッテルを貼られたことに絶望するシーンです。
葉蔵は自分の苦しみが他人に理解されず、ただ狂人として扱われることに失望し、自分はもはや人間ですらないと考えるようになります。
幸福・不幸
「人間失格」の中では幸福という言葉が多く登場します。
それは葉蔵が幸福について常に悩み続けてきたからです。
世間が思う幸福と自分の思う幸福がどうも違う気がする、そもそも幸福とは一体なんなのか。
ここでは幸福とそれに反する不幸についての名言をご紹介します。
幸福
まずは幸福から見ていきましょう。
その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、なんの躊躇(ちゅうちょ)も無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。
「人間失格」の中で唯一、葉蔵がこの瞬間は幸福だったとはっきり明言しているのがこのシーンです。
後に共に心中をする女と一夜を共にした時のシーンです。
この女性は葉蔵の初恋でした。
「人間失格」にはたくさんの女性が登場しますが、葉蔵がはっきりと「すき」や「恋した」という表現を使った女性は後にも先にもこの女性だけです。
この心中によって女性は死に、葉蔵は死ねずに生き残りました。
このことが葉蔵の罪をより自覚させることに繋がるのですが、好きな人と一夜を過ごすというのは間違いなく「幸福」なことだったのです。
弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我(けが)をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。
幸福を感じた一夜の後、葉蔵の幸福は消えてしまいました。
その理由を書いた文章がこれです。
よく「人間失格」は好き嫌いがハッキリ分かれる小説だと言われることがあります。
ある人は
全く理解できない!
と思うし、ある人には
これは自分だ!
と雷に打たれたような衝撃が走ると。
それを象徴するような文章だと思います。
「幸福をおそれる」という感情をどれほどの人が理解できるのでしょうか。
例えば結婚式の前にかかるマリッジブルーという言葉がありますが、ある人は
結婚なんて人生最高の時じゃないか、憂鬱になる必要なんてどこにある?
と不思議がります。
しかし、「幸福になる」ということは少なからず「現状が(良い方向に)変わる」ということになります。
この「現状が変わる」ということが、例え良いことであってもおそろしいと感じる人がいるのです。
太宰治はそういう人のことを弱虫と表現しています。
してその翌日(あくるひ)も同じ事を繰返して、
昨日(きのう)に異(かわ)らぬ慣例(しきたり)に従えばよい。
即ち荒っぽい大きな歓楽(よろこび)を避(さ)けてさえいれば、
自然また大きな悲哀(かなしみ)もやって来(こ)ないのだ。
ゆくてを塞(ふさ)ぐ邪魔な石を
蟾蜍(ひきがえる)は廻って通る。
ああ、しかし、自分は、大きな歓楽(よろこび)も、また、大きな悲哀(かなしみ)もない無名の漫画家。いかに大きな悲哀(かなしみ)があとでやって来てもいい、荒っぽい大きな歓楽(よろこび)が欲しいと内心あせってはいても、自分の現在のよろこびたるや、お客とむだ事を言い合い、お客の酒を飲む事だけでした。
薄暗い店の中に坐(すわ)って微笑しているヨシちゃんの白い顔、ああ、よごれを知らぬヴァジニティは尊いものだ、自分は今まで、自分よりも若い処女と寝た事がない、結婚しよう、どんな大きな悲哀(かなしみ)がそのために後からやって来てもよい、荒っぽいほどの大きな歓楽(よろこび)を、生涯にいちどでいい、処女性の美しさとは、それは馬鹿(ばか)な詩人の甘い感傷の幻に過ぎぬと思っていたけれども、やはりこの世の中に生きて在るものだ、結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と、その場で決意し、所謂(いわゆる)「一本勝負」で、その花を盗むのにためらう事をしませんでした。
まとめて3つの文章をご紹介しましたが、「大きな歓楽(よろこび)」と「大きな悲哀(かなしみ)」というのがこの文章のポイントです。
一番最初の文章は上田敏訳のギイ・シャルル・クロオの詩として「人間失格」の中に登場します。
葉蔵が初めてこの詩を見つけた時、彼は顔を燃えるくらいに赤くしました。
なぜなら、この詩に出てくる蟾蜍(ひきがえる)こそ自分だと思ったからです。
大きな悲哀(かなしみ)を避けるために大きな(よろこび)をも避ける。
これはつまり、不幸がやってくる不安から幸福をも否定するというこれまでの葉蔵の人生観そのものでした。
それを一人の詩人に蟾蜍(ひきがえる)のような人生だと言われてしまったのです。
それからというものこの詩の言葉はたびたび文章に登場することになります。
この詩の影響を受けて、葉蔵は結婚までしてしまっているので、言葉の影響力というものは大きいものがあると思わざる得ません。
不幸
全体的に苦悩の連続だった葉蔵ですが、不幸についてはどのように表現していたのでしょうか。
不幸。
この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆(あき)れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自(おのずか)らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。
世間に理解されない不幸というものをここでは描いています。
この世間に理解されない生き辛さというものを感じたことがある人は葉蔵の考え方に共感出来ると思います。
世間の納得が得られる不幸と
それは自己責任だろ!
と言われてしまう不幸が確かにこの世には存在します。
例えば学校の授業中にいつも寝ている生徒がいるとします。
多くの人は
なんで授業中に寝るんだよ!ちゃんと起きろよ!
と思うでしょう。
けれど、その生徒が睡眠障害を持っていて、自分の力ではどうしても起きれないという場合もあるのです。
睡眠障害なら始めからそう皆に言えばいい
と思う方もいるかもしれませんが、睡眠障害などを含んだ精神病患者の多くはその病名を人前では言いません。
分かりやすい例がうつ病です。
就職活動をする際にうつ病だったことを隠すようにアドバイスされることは多いです。
うつ病だったという過去のせいで就職が出来なかった…
なんて話も実際に聞くくらいです。
つまり、自分が精神病患者であると言う事というのはそれなりにリスクがあるし、信頼関係がなければ言えません。
このように精神病患者の行動を理解・共感するというのは大変に難しいことなのです。
葉蔵はそのことを分かっていて、さらにそれによって苦しめられています。
「人間失格」には精神病と思われるような症状がいたるところに出てきます。
- 統合失調症
- 強迫性障害などの不安障害
- アルコール依存症
- 薬物依存症
などですかね。
「人間失格」が発行された当時はまだまだ精神病について分かっていることが少なかったですし、多くの人たちから葉蔵の苦しみというのは理解されなかったのではないかと思います。
ああ、このひとも、きっと不幸な人なのだ、不幸な人は、ひとの不幸にも敏感なものなのだから
葉蔵が後に薬物依存症になるきっかけを作った薬屋の奥さんと初めて会った時の一文です。
不幸な人は不幸な人同士分かり、そこで関係を結びます。
類は友を呼ぶと言いますが、結局似た者同士の境遇な人と付き合っていくことが人間の生活としては楽なのでしょう。
自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修復し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。
不幸の根源の話です。
葉蔵の場合、他人に本音が言えないというのが全ての始まりのような気がします。
本当は嫌だけど、それが言えない。
相手が怒るのを想像すると怖くて堪らなくなり、相手が望むような言葉や行動を与えてしまうのです。
それが結局は自分を不幸にし、相手の不幸にもなってしまうのです。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分が今まで阿鼻叫喚(あびきょうかん)で生きて来た所謂(いわゆる)「人間」の世界に於(お)いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
脳病院に半ば強制的に入院させられ、人間失格となった葉蔵は幸福や不幸について苦悩することもなくなりました。
ある意味、幸福や不幸について考えることが出来ただけでも幸せだったのかもしれません。
幸福も不幸もなく、ただ、一さいが過ぎて行くだけなのです。
神・罪
太宰治はクリスチャンではありませんが、キリスト教の教えをよく学んだんだろうなと思われるような言葉が「人間失格」の中では多く登場します。
また太宰治は「人間失格」の他にも「駈込み訴へ(かけこみうったえ)」という聖書をモチーフとして描いた作品なども書いていたりします。
その小説ではイエス・キリストを裏切った12弟子の一人であるイスカリオテのユダを主人公にし、ユダのイエス・キリストへの偏愛を独自の視点で描き切っています。
そんな太宰治が「人間失格」の中で神をどのように考え、また自身の罪についてどのような考察をしているのか、見ていきましょう。
神
「人間失格」における神とはキリスト教を土台とした神ではないかと考えられます。
というのも、「人間失格」にはクリスチャン・神の子のイエスという言葉も見られ、神に祈るという表現もあるからです。
主人公の大庭葉蔵は神に一体何を告白したのでしょうか。
自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞(むち)を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。
葉蔵は自分の罪のために地獄に行くのだと信じているような節があります。
その罪というのが複雑で、それは道化で周囲を欺いたことや親の期待に応えられなかったこと、人間失格に追い込まれるまで依存症に陥ってしまったことなど様々だと思います。
自分の罪を自覚していて、その罪が償うことのできないほどのものだと自分で決めつけてしまっているために、ここまで悲観的になっているのではないでしょうか。
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者(ばかもの)が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)
「人間失格」に登場する唯一の祈りがこれです。
最初で最後の祈りが自分のためではなく、他人のための祈りなのです。
しかも、他人の幸福のために祈っているのです。
ここに葉蔵の魅力が全て詰まっていると私は感じています。
神に問う。信頼は罪なりや。
神に問う。無抵抗は罪なりや。
人を信頼すると、なぜだか不幸になってしまう。
人の言われた通りにしていると、なぜだか不幸になってしまう。
葉蔵はその不幸の原因は自分の罪にあるのだと思っています。
しかし、その罪が一体何なのかはよく分からないままだったのです。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
小説「人間失格」の最後の文章がこれです。
葉蔵は脳病院にいれられ、多くの人から狂人に見られました。
葉蔵自身は自分のことを人間失格だと思いました。
しかし、葉蔵をよく世話していたバーのマダムは彼を神様みたいにいい子だと言いました。
ここに作者である太宰治の願いが込められているように私は思います。
最後の最後に主人公の人生を肯定してくれる言葉が登場するのです。
罪
自分が不幸なのは自分が罪を持っているからだと考えていた葉蔵ですが、罪とは一体何なのかというのもまた難解なことでした。
自分が罪人であるということは分かっているのに、罪が何かは分からないという彼の苦難が垣間見れます。
「しかし、牢屋(ろうや)にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実態もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇(やみ)というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼(ああ)、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」
罪と罰。ドストエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら?罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈(そうまとう)がくるくる廻っていた
葉蔵と友達である堀木との間で行われた遊びである「対義語(アントニム)当てっこ」の中で登場した罪のアントニムというお題に考え込む葉蔵。
堀木はとっくに興味をなくしているのにも関わらず、葉蔵は一人で罪のアントニムを考え込んでいます。
分かりかけたようで分かっていない、それが葉蔵にとっての罪というもののようです。
死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ
薬物依存に陥り、半狂乱になってもはや自殺願望まで起こってしまった葉蔵です。
この後、葉蔵は脳病院へと収容されます。
不幸から逃げよう、苦悩から逃げようとすればするほど、ますます不幸や苦悩が湧きおこっていってしまうのです。
人間関係
葉蔵は人間関係においても多くの苦悩を持っていました。
ここでは葉蔵の家族と友人そして、女性についての名言を見ていきましょう。
家族
葉蔵の生家は青森にある大豪邸でした。
父親は政治家で当時の貴族院に所属している程でした。
そんな大豪邸の息子(しかし長男ではないので家は継がない)として産まれた葉蔵は家族にたいしてもどこかよそよそしい態度をとっていました。
自分は子供の頃から、自分の家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。
幼い頃から自分の思いや考えを人に伝えることを辞め、道化を演じて生きてきた葉蔵。
それは家族の前でも同様でした。
彼は両親や兄弟、そして家にいる使用人の前でも道化を演じていたのです。
父に訴えても、母に訴えても、お廻(まわ)りに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
幼少期に葉蔵は家の使用人によって犯されるという哀しい経験をします。
しかし、そのことを誰にも訴えませんでした。
それはつまり、葉蔵には心から信頼出来る人が誰にもいなかったのです。
例えそれが両親であったとしても、彼は本当のことは言えなかったのです。
父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜(ふぬ)けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐(なつか)しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺(つぼ)がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力さえ失いました。
葉蔵にとって「父」という存在がいかに重要なものだったのかが分かる文章です。
彼は常に父を気にしていました。
父を気にしているからこそ苦悩していたのです。
父が居なくなると、苦悩から解放されたかと思えばただただ空っぽになってしまったのです。
友人
葉蔵の友達には堀木という人物が唯一登場します。
葉蔵と堀木との関係は複雑で、心からなんでも話せる仲というわけではありませんでした。
しかし、堀木との仲はなんやかんやと続き、葉蔵の人生にとって重要な人物であることには間違いないのです。
堀木と自分。互いに軽蔑(けいべつ)しながら附き合い、そうして互いに自(みずか)らくだらなくして行く、それがこの世の所謂「交友」というものの姿だとするなら、自分と堀木との間柄も、まさしく「交友」に違いありませんでした。
葉蔵はどこか堀木を軽蔑している節があります。
しかし、堀木を食えないやつと思いながらも、どうしてか堀木との関係を切れないのもまた事実なのです。
きっと葉蔵は堀木と付き合うのが楽なのだと思います。
政治家の息子として産まれた葉蔵に堀木は様々なことを教えました。
その例が
- 酒と煙草
- 陰売婦
- 質屋
- 左翼思想(共産主義)
といったものでした。
その堀木から教えられた様々なことによって葉蔵は人生が変わっていったのです。
自分と堀木。形は、ふたり似ていました。そっくりの人間のような気がする事もありました。もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み歩いている時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを駆(か)けめぐるという具合いになるのでした。
葉蔵は堀木を軽蔑していながらも、堀木と自分は似ていることを認めていました。
類は友を呼ぶという言葉がありますが、結局友達は自分の鏡なのだと思います。
きっと堀木もまた葉蔵のことを軽蔑していながらも、どこか似ている部分を見つけているのでしょう。
女
葉蔵には多くの女性が関わっています。
多くの女性は葉蔵のことを慕って、そのうちの何人かは葉蔵と恋愛関係になったりもします。
そんな恋愛経験豊富な葉蔵にとって女はどう映っていたのでしょうか。
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。
ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎(とら)の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞(むち)とちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒(ちゆ)し難い傷でした。
女は引き寄せて、つっ放す、或(ある)いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳(じゃけん)にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼少時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異なった生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。
この「人間失格」において、作者太宰治の女性に対する観察眼が凄まじいなと思うのがこのような文章です。
葉蔵はまず始めに女性は難解であるとはっきりと言っています。
多くの男性が女性の気持ちが分からないと言ったり、女性もまた男性の気持ちが分からなかったりするので、このことは多くの人に共感が得られるのではないでしょうか。
しかし、凄いのはこの後です。
葉蔵はそんな難解である女性を常に観察していたのです。
それは葉蔵の持っている人間恐怖から来る観察なのですが、その観察によって彼は女性の特徴がなんとなく分かってきます。
葉蔵は難解な女性を観察することによって理解しようとつとめたのです。
その結果、彼は多くの女性から好意を寄せられるようになったのです。
女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。
実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
葉蔵の道化と女性というのはとても相性の良いものでした。
葉蔵の道化というのはお調子者になるということで、コメディアンのように人を笑わせることでした。
しかし、彼は男性はいつまでもゲラゲラと笑っているわけにはいかず、常にお調子者だと失敗するということを学んでいました。
しかし、女性にはその理論は通用せず、いつまでも笑っていることが可能なのです。
そのため、葉蔵はいつまでも道化を女性の前で披露しなければなりませんでした。
しかし、道化を演じてさえいれば女性は満足してくれるという自信もまた葉蔵にはあったのです。
自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀(かな)しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い行為、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。
この部分は女性というよりも淫売婦についての文章ですが、興味深いです。
葉蔵は淫売婦を女性でも人間でもない狂人のように見えたと、一見すると職業差別にも思えるような言葉を残しています。
しかし、なぜ彼女たちが人間ですらない狂人に見えたかというと、彼女たちには哀しいくらいに欲がなかったからです。
これは言い換えると、人間らしさとは欲があるということではないでしょうか。
しかし、物語の最後の葉蔵の状態はただ幸せも不幸もなくただ一切が過ぎてゆくという状態です。
物語の最後の葉蔵こそ欲を失った=人間らしさを失った淫売婦のような人間になっていったのです。
用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。
葉蔵は女性にお金を借りる(というか女性にお金を出してもらう)ことを何とも思っていません。
多くの男性の場合はプライドからそれは出来ないと思ってしまうことでも、葉蔵は平気だったりします。
これこそ天性のヒモ体質というか、ホストとかそれを職業に出来ていたら、また葉蔵の人生も変わったのかと思ってしまいます。
しかし、そんな葉蔵ですが、唯一初めて恋をした女性に自分の財布の中を見られた時は屈辱を感じました。
彼のプライドが湧きおこった瞬間でした。
やはり恋とは人間に様々な感情を芽生えさせるものだというのも「人間失格」では描かれています。
侘(わ)びしい。
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟(つぶや)きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。
女性と様々な話をしてきた葉蔵ですが、女性から侘しいという言葉を聞いたことがないと言います。
確かに生きていて、人から侘しいという言葉を聞いたことはあまり無いでしょう。
葉蔵は侘しいとは決して言わないけれど、侘しい雰囲気を持つ女性に恋をしていくのでした。
女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵(ちり)ほどの、つながりを持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きている
この言葉にある休むというのは、決して一人で眠るということを指しているのではなく、葉蔵と二人で休む=一緒に夜を共にすることを指しています。
葉蔵は女性は一緒にセックスをしても、朝起きてからは女性は全くそのことを引きずらないことを不思議がっています。
女性にとって夜と昼は全く別の世界で生きているように葉蔵には見えていたのです。
いかがでしたでしょうか。
「人間失格」の名言の中にあなたの人生にとって指標となれるようなものがありますように。
もし、「人間失格」自身にも興味を持たれましたら、どうぞ本文も読んでみて下さい。
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小説はちょっと…という方は分かりやすい漫画も出版されていますので、よろしければ漫画からでも読んでいただけたらと思います。
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